『ドラゴン・テール――核の安全神話とアメリカの大衆文化』(ロバート・ジェイコブズ著、高橋博子監訳、新田準訳)が5月26日(日)の『神戸新聞』『中國新聞』『京都新聞』書評欄に掲載されました。
共同通信の配信です。
書評者は山本昭宏・神戸市外国語大講師。山本さんは、現代文化学、メディア文化史専攻の気鋭の研究者で、『核エネルギー言説の戦後史1945-1960――「被爆の記憶」と「原子力の夢」』(人文書院)の著者です。
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大衆文化にみる米の核
米国の大衆文化には、核実験によって生物が巨大化したり、放射線を浴びることで超現実的能力を身につけたりする物語が多い。フィクションの中で、なんらかの超常現象が起こっても、そこに核や放射線の要素を付け加えておけば、説明は終わったものとされる。
SF的な物語にとって、核は格好の舞台装置を提供してきた。本書は、このような「魔術的」「錬金術的」な核の表象に注目し、映画、コミック、テレビ番組、原子力委員会の広報映像・パンフレットなどを広く調査している。特に興味深いのは、敵の核攻撃を生き抜くためのマニュアルや、核シェルターについての考察である。核兵器の保有を国民の多くが前提としている米国では、当然ながら核戦争への危機感も高かった。
しかし、マニュアルや核シェルターによって核戦争を生き残ることができるという発想自体は、極めてグロテスクであると言わざるを得ない。そこでは核兵器が最終兵器だという認識は薄い。むしろ使用可能な兵器として捉えられている。また、核シェルターを持っている人間だけが生き残る資格を有しているということにもなるだろう。
その一方で、米国内で行われる核実験がテレビ中継される際には、実験は安全であるという印象操作がなされていた。悪い敵の核攻撃は準備と訓練で対応可能だから、過剰に怖がることはない。自分たちの核兵器は善いものであり、核実験は統御可能だから安全である。このような二面的な認識が育まれ、定着する過程で、大衆文化は大きな役割を果たしたのだ。
では、翻って、多くの国民が核兵器の拒否感を共有してきたはずの日本の大衆文化は、核実験や放射能を、さらには原子力発電所を、どのように描いてきたのだろうか。それを私たちはどのように受け止めてきたのだろうか。福島の原発事故を経験したいま、本書の試みに呼応するような著作を読んでみたいと思った。(山本昭宏・神戸市外国語大講師)